Lumiere Noriko Maki リュミエール ノリコ マキ

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  • 天鵞絨の赤い椅子 Cadeira de verudo vermelho

    ¥8,250

    信長が宣教師から贈られて大変喜んだ、赤い天鵞絨(ビロード)の椅子をイメージした作品です。 *作品ストーリー* ルイス・フロイスは『日本史』の中で、織田信長について、“人々が喜び楽しむことができる、すべての美しく珍しい品々が集まる中心点 ”と伝え、高位の貴人などから様々な贈り物が届けられていたことを綴っています。 信長がインドやポルトガルからもたらされた南蛮渡来の衣服や物品を喜んだため、おびただしい品々が贈られ、多くの大きな箱がいっぱいになっていたのだそう、 天正9年(1581年)、信長が京都で行った大規模な騎馬行事、京都御馬揃えでは、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから贈られた「金の装飾を施した濃赤色のビロードの椅子」を披露した様子が『日本史』に書かれています。 “ 信長はこの椅子をことのほか喜び、自分の入場に威厳と華麗さを加えるために、椅子を4人の男に肩の高さに持ち上げさせ、自分の前を歩かせた。 そして、行事の最中には、彼の身分を誇り、その偉大さを表すために、一度馬から降りて椅子に座って見せ、他よりも異なる者であることを示した ” 信長が喜んだ椅子、どれほど華麗な椅子だったのでしょうね。 豪華な馬揃えの様子に想いをはせながら、深紅のスワロフスキーをつかって、信長が気に入った赤いビロードと黄金の椅子をイメージした作品をつくりました。 素材:スワロフスキー 金属部分:真鍮、銅 長さ:42.2cm + アジャスター部分 7.8cm 、ペンダントトップ(スワロフスキー、金具)3cm 作品番号:922 ※ペンダントトップ部分の取り外し可能  別のチェーンや、革ひも、細いリボンなどに付け替えてもお楽しみいただけます。

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  • すべて良きことに Wish for peace

    ¥8,778

    SOLD OUT

    安土城には巨大な吹き抜けが存在し、宝篋印塔が置かれていたのではという説からイメージした作品です。 *作品ストーリー* 安土城の天主がどのような姿をしていたか、いくつもの案が存在しています。 代表的なものが、加賀藩の大工棟梁だった池上家に伝わった「天主指図」を元にしたもの。 一番の特徴は、天主内部に4階までの大きな吹き抜けの空間があり、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が収まっていたといわれています。 宝篋印塔は、宝篋印塔陀羅尼が収められた塔。 造塔することで、現世と来世での幸せや願いを叶える功徳があると言われています。 もし安土城の吹き抜けに宝篋印塔があったのだとしたら、信長はきっと、  「すべてが良いことに向かうように」 という願いをこめて作ったのではないかと思い、そんなイメージをラピスラズリで作品にしました。 素材:ラピスラズリ 金属部分:真鍮、銅 長さ:42.2cm + アジャスター部分 7.8cm 、ペンダントトップ(ラピスラズリ、金具)3cm 作品番号:921 ※ペンダントトップ部分の取り外し可能  別のチェーンや、革ひも、細いリボンなどに付け替えてもお楽しみいただけます。

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  • パードレからの金米糖 Confeito do padre

    ¥13,530

    織田信長が宣教師から献上された、金米糖(コンフェイト)をイメージした作品です。 *作品ストーリー* 戦国時代、ポルトガルからもたらされた、様々な南蛮渡来の品々。 1569年(永禄12年)、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが織田信長に初めて謁見した際に献上したのは、ろうそく数本とフラスコ(ガラス瓶)に入った金米糖でした。 当時の金米糖は現在のものよりも大きく、凹凸状の突起が小さいものでした。 金米糖は、核となるケシ粒に熱い蜜を少量ずつかけ、鍋の中で回転させながら、目的の大きさと凹凸状の突起ができあがるまで、1週間から2週間以上の時間をかけて粒をゆっくり成長させていく、という大変な手間をかけて作られるお菓子。 1573年(元亀4年)、信長と足利義昭が対立した際、フロイスが信長の陣営に塗金の円盾を贈ったところ、信長は大変喜んだそうですが、その後で贈った一瓶の金米糖にはそれ以上に喜んだのだそう。 陣中に金米糖が届いた時、伴天連(パードレ)はどこにいるかと気にかけ、フロイスに親愛かつ丁寧な書状をしたためています。 宣教師たちと何度も親しく会見し、キリスト教の教義に理解を示し、布教活動を保護した信長。 信長がひとつづつ、大切に食べたであろう金米糖をイメージして、凸凹のある淡水真珠で作品をつくりました。 素材:淡水真珠 金属部分:真鍮、銅 長さ:85cm + アジャスター部分 8.5cm 作品番号:919

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  • デウスのごたいせつ Deus no gotaisetsu

    ¥7,678

    初期のキリスト教宣教師たちが「神の愛」の訳語として使った、「デウスのご大切」という言葉をイメージした作品です。 *作品ストーリー* 「デウスのご大切」は、16世紀の日本に訪れた初期のキリスト教宣教師たちが、「神の愛」の訳語として使った言葉です。 当時の日本では、「愛」という言葉は主君から家臣によるものであったり、世俗的なものを表していたため、「ご大切」という言葉が使われたのだそう。 また、この「ご大切」は、家族や友人などの人々の間で、お互いを思いやる愛情を表す言葉としても用いられました。 「ご大切」の元の言葉は、ラテン語ではCaritas(カリタス)、ポルトガル語ではCharidade(カリダーデ)。 日本で刊行された教理本「ドチリナ・キリシタン」の1600年(慶長5年)版の中にも、  “つとめておこなうべき事とは、かりだでという大切の善に  あたる事である” と説かれています。 真珠も、長い時間をかけ、母貝の中で大切に育まれるもの。 キリシタンの人々の心に輝いた「デウスのご大切」という言葉から、淡水真珠がスワロフスキーの十字架の光に抱かれているイメージの作品をつくりました。 素材:淡水真珠 金属部分:真鍮、銅 長さ:42.2cm + アジャスター部分 7.8cm 、ペンダントトップ(スワロフスキー、淡水真珠、金具)3cm 作品番号:935 ※ペンダントトップ部分の取り外し可能  別のチェーンや、革ひも、細いリボンなどに付け替えてもお楽しみいただけます。

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  • 十本の銀の延べ棒 Barra de prata de Wada-dono

    ¥12,980

    戦国時代、布教活動のため来日したキリスト教宣教師たちに思いやり深く接し、宣教師たちから非常に尊敬された、和田惟政をイメージした作品です。 *作品ストーリー* 戦国時代の日本でキリスト教の布教活動を行った、イエズス会宣教師のルイス・フロイス。 フロイスの著作『日本史』には、永禄8年(1565年)に京都に入り、布教活動の中で様々な困難を経験したことが書かれています。 そのフロイスを、父親のような愛情を持って様々な場面で助けたのが、京都所司代の和田惟政(これまさ)でした。 敬虔なキリシタンの高山右近の父の親戚にあたり、以前からキリスト教に好意的だった彼は、フロイスを織田信長に接見させ、宣教師が京都に自由に滞在してよいという許可状を賜る手助けをしています。 宣教師たちのため、信長への贈り物として、京のキリシタンたちは3本の銀の延べ棒を集め、惟政に託けました。 しかし、それでは少なすぎると思った彼は、7本の銀の延べ棒を自らが用意し、合計10本を伴天連(バテレン=宣教師)からの贈り物として信長に差し出しています。 信長は、自分には金も銀も必要ではなく、伴天連は異国人であり、もし許可状のために自分が金銭の贈与を受けるなら権威は失墜すると伝え、伴天連が気に入るような許可状を無償で作成するよう、惟政に伝えています。 「日本史」の中でも度々触れられる、和田殿(Wada-dono)が宣教師たちに向けた丁重さと深い愛情は、とても美しく感動的です。 和田惟政のあたたかく清廉な人柄をイメージして、淡水真珠と水晶で作品をつくりました。 素材:淡水真珠、水晶 金属部分:真鍮、銅 長さ:48.7cm + アジャスター部分 8cm +トップ部分(水晶、淡水真珠)2.7cm 作品番号:929

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  • 青いお屋根のセミナリヨ Seminario do Anzuchi

    ¥10,978

    織田信長の手厚い保護により、イエズス会宣教師が安土城下に建設したセミナリヨ(神学校)をイメージした作品です。 *作品ストーリー* セミナリヨは、天正8年(1580年)から慶長19年(1614年)の間に日本に存在した、イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校)のこと。 キリスト教の教義に理解を示し、布教を保護していた織田信長は、宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンチノの求めに応じ、天正8年(1580年)、安土城から近い場所に教会用地を与えます。 信長は建築費の補助などの様々な便宜をはかったほか、安土城と同じ「青色の瓦」の使用を許可するという破格の特権を与えており、安土では瓦で葺いた建物は安土城とセミナリヨだけだったそう。 3階建ての優美な建物は、大きな評判となりました。 セミナリヨでの教育は、カトリック教会や学問に必要なラテン語の古典と、平家物語のような日本の古典を学ぶことに力が入れられたほか、楽器演奏や聖歌などの音楽、水泳などの体育も重視され、週末には郊外へピクニック、 復活祭やクリスマスには文化祭が行われていたそう。 信長がセミナリヨを訪れ、少年たちの弾く西洋の楽器を聴いたことが、ルイス・フロイスによって書き残されています。 セミナリヨの屋根の瓦は、実は「青」ではなく、現在の瓦のようなグレーのものだと言われています。 でもきっと、宣教師や生徒たちには、希望のあふれる青に見えたのかもしれませんね。 練りトルコ石をつかって、希望を持って人々が見あげた、青いお屋根のセミナリヨをイメージして作品をつくりました。 素材:練りトルコ石 金属部分:真鍮、銅 チェーン長さ:72.5cm + アジャスター部分 8cm トップ部分の大きさ:約4.3mm × 1.4mm 作品番号:928

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  • 永禄十二年の出会いのロザリオ Rosary of encounter of 1569

    ¥18,480

    織田信長とルイス・フロイスの建築現場での出会いをイメージした作品です。 *作品ストーリー* イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが日本を訪れたのは、永禄6年(1563年)。 フランシスコ・ザビエルが日本を訪れた天文18年(1549年)から14年が経っていましたが、いまだ布教は大変に困難でした。 キリスト教に理解のあった京都所司代の和田惟政(これまさ)を通じ、フロイスは織田信長に謁見する機会を得ます。 初めて2人が対面し言葉を交わしたのは、永禄12年(1569年)。 信長が擁立する将軍足利義昭のために建設していた二条城の工事現場でした。 自らが建築現場で陣頭指揮を取るため、粗末な服を着、どこにでも座れるように虎の皮を腰に巻いていた信長。 フロイスを気遣い、陽が当たるので帽子をかぶるよう伝えた後、橋の上の板に腰をかけ、数千人の人々が見守る中、約2時間もゆったりとフロイスと語らったのだそう。 その後も親交は続き、天正10年(1582年)の本能寺の変で没するまで、信長は異例の待遇で宣教師たちとキリスト教を保護し、布教活動の大きな力となりました。 今年、2019年は、2人が出会ってからちょうど450年の年。 建築現場での出会いを記念して、リバーストーン(大理石)、ウッドビーズで作品をつくりました。 素材:リバーストーン(大理石)、ウッドビーズ 金属部分:真鍮、銅 長さ:53cm 作品番号:916

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  • 京へ続く道 The Road to Miyako

    ¥11,880

    信長が整備した、安土から京の都まで続く道をイメージした作品です。 *作品ストーリー* 織田信長は、安土から京の都までの間に、誰もが安心、安全に旅ができるようにと、道路を整備しています。 ルイス・フロイスの『日本史』の中には、その道路の様子が描写されています。 “ 長さ約50km、幅22mの平らでまっすぐな道路の両側には、旅人のための日陰になるように松と柳を植え、樹木の下には砂や小石が置かれ、道路全体が庭のようだった ” “ 道のところどころに箒をかけ、近くに住む人々が清掃をするように定め、一定の間隔を置いて休息できる家を作り、旅人がそこで売っている豊富な食料品を飲食し、元気を回復できるようにした ” “ 夜間に旅をして、路肩で眠り込んでも安全なほどに、道中の秩序と整備が保たれていた ” “ 関税や通行税を廃止して、自由に通行できるようにしたため、人々はますます信長に心を惹かれ、信長を主君に持つことを好んだ ” 人の流れが良くなるということは、経済の流れも良くなるということを、信長は気づいていたのかもしれません。 多くの情報や富を運んだ、安土から京への道をイメージして、中国翡翠とチェコガラスビーズで作品をつくりました。 素材:中国翡翠、チェコガラスビーズ 金属部分:真鍮、銅 長さ:71cm + アジャスター部分 8cm 作品番号:932

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  • 瀬田の唐橋 Seta no Karahashi Bridge

    ¥30,800

    信長が琵琶湖に架けた、瀬田の唐橋をイメージした作品です。 *作品ストーリー* 織田信長が造った、安土から京までの14里(約52km)の道には、多くの人々が安心、安全に旅ができるよう、様々な配慮がされていました。 琵琶湖の「瀬田の唐橋」もそのひとつ。 ルイス・フロイスは『日本史』の中で、信長が琵琶湖に橋をかけたことを綴っています。 “ 都から安土へ向かう道が、旅人にとってあらゆる苦難から免れられるよう、信長は、近江の湖の幅が狭 くなって激流と急流を伴う瀬田というところに、4,5千クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋 を懸けさせた。 それは4畳の幅で、180畳の長さがあり、形はきわめて完全だった ” 古来より、橋は何度もかけられたそうですが、本格的な橋を現在の場所にかけたのが信長だったそう。 安土城の普請奉行の木村次郎左衛門と、瀬田城主の山岡景隆が架橋奉行となり、天正3年(1575年)、長さ約324m(180間)、幅約7.2m(4間)の、両側に欄干を備えた橋を完成させています。 また、この橋は、初めて銅製の擬宝珠(ぎぼし)が欄干の親柱につけられたことでも知られています。 足を濡らさずに、楽に川を渡ることができる橋を、当時の人々はどんなに喜んだことでしょうか。 その後何度か橋は架け替えられても、今も信長が架けた同じ場所に橋はあり、変わらない琵琶湖の風景を眺めることができます。 深い緑色のスワロフスキーを琵琶湖の水面、ゴールドサンゴを橋、メタルビーズを擬宝珠に見立て、信長が架けた瀬田の唐橋をイメージした作品をつくりました。 素材:スワロフスキー、ゴールド珊瑚 金属部分:真鍮、銅 長さ:55.5cm + アジャスター部分 8cm 、ペンダントトップ(スワロフスキー、金具)5cm 作品番号:933

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  • 天正9年の盆祭り Bon festival of Anzuchi, 1581

    ¥17,050

    信長が宣教師たちを見送るため、安土城の天主に提灯を灯した盆祭りの夜をイメージした作品です。 *作品ストーリー* 数々のエピソードからも、人を喜ばせることが好きだったことが伺える織田信長。 天正9年(1581年)、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが安土を訪れ、滞在の後で出発しようとしたところ、信長は様々な理由で出発の許可を与えず、滞在を10日以上も長引かせたそう。 その理由は、7月15日のお盆の送り火の日に、信長が特別な催しを考えていたからでした。 信長は、家臣たちに家の前で火を焚くことを禁じ、安土城の天主を色とりどりの豪華な美しい提灯で飾らせたそう。 無数の提灯の群は、まるで空で燃えているかのように見え、鮮やかな景観だったといいます。 城山から修道院までの街路には、葦でできた松明を持った2千の群衆を整列させ、街路はこぼれ火でいっぱいとなったそう。 ルイス・フロイスの『日本史』の中で、最も幻想的で美しい描写がされている、盆祭りの場面です。 祭りの最中に、信長は修道院まで出向き、宣教師たちと歓談しており、翌日も安土城に招いています。 翌年の6月に本能寺の変が起こったため、この時が信長にとっての最後のお盆となりました。 日本初のライトアップと言われている、信長の盆祭り。 夜空のようなブルーサンドと、きらめく提灯のようなスワロフスキーをつかって、天正9年の安土の盆祭りをイメージした作品をつくりました。 素材:ブルーサンド、スワロフスキー 金属部分:真鍮、銅 長さ:43cm + アジャスター部分 8cm 作品番号:925

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